遺骨収容をする理由と硫黄島遺骨収容活動の体験談③ 大西統括より
【壕内にて】
硫黄島は自衛隊の島である。よって、民間人は立入禁止となっている。慰霊巡拝などで遺族会が数回立ち入りを許されている。
厚生労働省の遺骨収容団員として硫黄島へ向かった。硫黄島は本土から千二百五十キロほど南下した小さな島である。七十九年前には、栗林中将をはじめ約二万人の将兵が、米軍と対峙した。海からも空からも援軍のこないなか、奮闘して玉砕した。私達には想像もできない激戦であった。
いよいよ遺骨収容作業が始まる。日本軍の陣地は、摺鉢山地区隊、南地区隊、西地区隊、東地区隊、北地区隊に分かれ、それぞれ地下壕を掘り、戦闘の時を待っていた民間人米軍の上陸作戦は二月十九日の朝より始まる。三月十七日、北地区から栗林兵団長が決別打電を打った。硫黄島でのすべての戦歿者の戦死日は三月十七日となっている。
今回の作業はこの北地区の地下壕である。壕の入り口は狭く、階段を掘り出しながら地下へと進んで行く。柄の短いスコップを使い、硬くなった砂を取り出しながら進むが、地下に進むにつれて汗が流れ落ちる。まるでサウナのようだ。壕は、アリの巣のように横にも伸びている。四十五度の傾斜は当たり前で、気を抜くと一気に滑り落ちてしまいそうだ。掘り出した土は、みんながミノを使い、バケツリレーのように地上へと出していく。なかなかの重労働である。私が経験した、一番温度の高い壕では六十五度を超えていた。作業着を着て、長靴を履いての作業は五分位が限度である。先頭を交代しながら遺骨を探す。見つかればよいが、空っぽの壕もある。多分、その壕を捨て別の壕西地区移ったか、もしくは最後の決死の突撃を、したのかもしれない。
遺骨が見つかるのは入り口の底が多い。入り口で見つかる遺骨は、米軍との戦闘で斃れた人であろう。壕の底で見つかる遺骨は、重症となり横たわって最後を迎えた人であろう。頭の先から足の先までの遺骨が見つかることはない。一部はかならず見つからないのだ。それは手榴弾で自決をしたと思われる。
ある時、壕底で小休止していると、目の前の側壁に何か突き刺さっていた。そっと抜いてみると、肋骨であったということもあった。最後の力をふりしぼり、手榴弾を胸に抱いて自決したのだろう。彼は最後の時に何を思ったのだろうか、故郷の風景、子供の頃のこと、父や母の顔。それとも必ず帰ると約束をした恋人のことだろうか。
壕底よりわずかに見える、まぶしい地上の光を見上げた時、ふっと頭をよぎった。彼らは、少しでも体が動けば、最後の突撃に連れて行ってくれと、戦友に懇願しただろう。死ぬなら地上で死にたいと思ったのではないだろうか。一人にしないでくれと叫んだかもしれない。しかし、突撃した人も残されたものも、皆死んでいったのである。
この文章は硫黄島遺骨収容活動五回目に書いたものです。硫黄島での遺骨収容活動がとのようなものか、参考になれば幸いです。
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